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2017年10 月 1日

NO.217-1(メインコラム)青雲の志

今回のテーマは「青雲の志」です。

14世紀にイタリアで始まり、やがて西欧各国に広まったルネッサンスは、大富豪のメディチ家が、

彫刻家から科学者、詩人、哲学者、画家、建築家まで「青雲の志」を持った異分野の多彩な人材を

フィレンツェに呼び集めたことで化学融合が起こり開花したと言われています。

著述家のフランス・ヨハンソンはこの爆発的な開花現象のことを「メディチ・エフェクト

と名づけました。

 

さて現代の日本では先日、文部科学省が東京の一極集中を緩和するために、東京23区内の

私立大学・短大の定員を抑制する旨を告示しました。具体的には、2018年度は定員増を、

2019年度は大学・短大の新設を原則として認めないとの内容です。

 

明治以降日本は、「東京の活力」が「地方の活力」を生み、それがまた東京に跳ね返って

「東京の活力」が再生産されるというプラスの循環を重ね発展してきました。

そしてそのプラスの循環を生み出だす装置の役割を果たしてきたのが「青雲の志」を持った全国の青年を

集めてきた東京の大学です。

まさに「大学・エフェクト」です。

 

日本全国から「青雲の志」を抱いて上京した青年達は、互いに結びつき刺激し合い

卒業後は、

①東京で立身出世して故郷へ錦を飾ることを夢見る者がいて、

②東京で得た知識と経験と人脈を故郷で活かして活躍することを夢見る者がいて、

この2つのバランスが取れてプラスの循環が働いていたのです。

 

ところが近年、「地方出身の大学生の過半数はUターンを希望しているものの、

故郷に仕事の受け皿がなく、結局その過半数はUターン出来ない」という問題が

起こっています。

そのため東京と地方との間のプラスの循環バランスは崩れつつあります。

 

江戸時代に「入り鉄砲に出女」という言葉がありましたが今回、

東京にいる中央官僚はその解決策として「入り青年」を規制することにしました。

 

他の解決策は無いのでしょうか? 考えてみましょう。

 

①案:規制して「入り青年」の数を規制する(←今回の案)。

②案:地方交付金、助成金をバラまいて「出青年」の数を増やす。

③案:神の見えざる手に任せる。

 最後に官僚が一番嫌がる案

④案:中央官庁が地方に出る→官庁寄生型企業が地方に出る→地方に受け皿が出来る。

  

東京にいる中央官僚が考えた出した策は①案でした。

私は④案を支持します。

青年達の「青雲の志」を人為的に制限する策にはどうしても同意できません。

皆さんはどう考えますか?

 

さて夏目漱石の小説に、「青雲の志」を抱いた主人公の三四郎が大学入学のため

熊本から東京に上京することで物語がスタートする「三四郎」という作品があります。

故郷の熊本から東京に向かう車中で同席した男性と三四郎との会話を

最後にご紹介します。

主人公 三四郎のちょっと斜に構えた「青雲の志」が伝わってきます。

 

『「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。

すると、かの男は、すましたもので、「滅びるね」と言った。

―― 熊本でこんなことを口に出せば、すぐなぐられる。悪くすると国賊取り扱いにされる。

三四郎は頭の中のどこのすみにもこういう思想を入れる余裕はないような空気のうちで生長した。

だからことによると自分の年の若いのに乗じて、ひとを愚弄(ぐろう)するのではなかろうかとも考えた。

男は例のごとく、にやにや笑っている。そのくせ言葉(ことば)つきはどこまでもおちついている。

どうも見当がつかないから、相手になるのをやめて黙ってしまった。

すると男が、こう言った。

「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」でちょっと切ったが、

三四郎の顔を見ると耳を傾けている。

「日本より頭の中のほうが広いでしょう」と言った。

「とらわれちゃだめだ。いくら日本のためを思ったって贔屓(ひいき)の引き倒しになるばかりだ」 

この言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出たような心持ちがした。

同時に熊本にいた時の自分は非常に卑怯(ひきょう)であったと悟った。  

その晩三四郎は東京に着いた。髭の男は別れる時まで名前を明かさなかった。

三四郎は東京へ着きさえすれば、このくらいの男は到るところにいるものと信じて、べつに姓名を尋ねようともしなかった。

 

以 上

2017年5 月29日

NO.213-1(メインコラム)社会とつながる力

私は、資料を作成する時、集中するための適度な雑音を求めて、自宅近くの3つの図書館(杉並区の宮前図書館、武蔵野市の吉祥寺図書館、中野区の中央図書館)を利用しています。

また、仕事関係の本を読む時は、これまた適度な雑音を求めて、自宅近くの喫茶店(ドトールかスタバ)を利用しています。

 

この近所の図書館と喫茶店で4~5年ぐらい前から変化が起こっています。

 

図書館では、

3つの図書館とも1Fに「さまざまな分野の雑誌」と「各社の新聞」を自由に閲覧できるコーナーが有るのですが、現在このコーナーは高齢者の方々でいっぱいです。開館時から、長い人は夕方まで、複数の雑誌と新聞を丹念に読み続けています。

 

喫茶店では、

試験勉強をしている高校生達に交じって、一杯分のコーヒー代を払った沢山の高齢者が、長い時間を掛けて、持参した本を読み続けています。

 

私の地元では、図書館や喫茶店が、団塊の世代を中心とした高齢者の方々の居場所になっているのです。

 

そしてこの高齢者の人たちに共通していることが2つあります。

それは高齢者の皆さんはいずれも「男性」で「独りで来ている」ということです。

 

ひょっとして「独り」を楽しんでいるのかもしれませんし、

何か「目的」があって調べものをしているのかもしれませんが、

いつも同じお顔を拝見するので、何か「もったいなさ」を感じてしまいます。

社会にとっても、ご本人にとっても。

 

さて、本日のテーマを「社会とつながる力」としました。

私は、人生90年時代の21世紀において、このテーマは国民的テーマであると

考えます。

 

まず「社会とつながる力」の「社会」とは何を指すのか?

「社会」の意味を広辞苑で確認すると、

「家族、村落、ギルド、教会、会社、政党、階級、国家などが主な形態

と出ています。

 

つまり「社会とつながる力」が弱い人とは、

上記の主な形態とのつながりが弱いため、そこに居場所のない人、

という見方も出来ます。

よって「社会とつながる力」が弱い人は「独り」になる可能性が高いのではないか。

 

 

では次に「社会とつながる力」の「つながる力」とは「どのような力」なのか?

 

私はその力を次の「X」と「Y」と「Z」の掛け算である、と定義しています。

「社会とつながる力」=(自分の得意技)×(社会や他人のニーズ)×(人脈)

です。

40代、50代向け「セカンドキャリア研修」を実施して感じるのは、

「X」と「Y」と「Z」の各レベルを、A(優)、B(良)、C(不可)と3ランクに分けた場合の参加者の方の各レベルが、

「X」はAかBかCランクにばらけるのに対して、「Y」と「Z」は殆どの方がCランク、というアンバランスさです。

 

なぜそうなるのか?それは40代、50代の多くの方が

「Xのレベルを高めるための行動」には関心が高いが、

「Yの感性を磨くための行動」や「Zを構築するための行動」に対する観念が薄いという事です。

無理もありません。

長~い長~いサラリーマン生活の習いで、「社外のY」や「社外のZ」に対する観念はどうしたって希薄になります。

 

そこで私は、上記の研修の中で、

「40代、50代の現役の内に『社会とつながる力』を鍛えていただく」ために、

「YとZの重要性の理解⇒腹落ち⇒YとZを高める行動案の作成」を実施しています。

 

さて、最後に明治の文豪 夏目漱石の『断片』(大正四年)の中に

この「X」と「Y」と「Z」に関して示唆に富む文章があります。

最後にこれを紹介させていただきます。

『技巧の変化(右、左、縦、横、筋違)、そうしていずれも不成功の時、どうしたら成功するだろう? という質問を出してまた次の技巧を考える。そうして技巧はいかなる技巧でも駄目だということには気がつかず。人間の万事はことごとく技巧で解決のつくものと考える。そうしてすべての技巧のうちどれかが中(あた)るだろうと思う。彼らが誠に帰るのはいつの日であろう。彼らは技巧で生活している。あたかも、水の中に生活している魚が、空気という観念がないにどうしたら地上を歩くことができるかと工夫するようなものである。』

                                                         以 上

2017年5 月12日

NO.212-1(メインコラム)起承転結

第一話(起)

先日たまたま自分の手帳をパラパラめくっていたら、

こんなことが書いてあるのを見つけました(出所は書き忘れており不明)。

 

『5年計画を作っているのは旧ソ連ぐらい。

 新規事業にとって計画や分析は必要十分条件ではない。

キーワードは

①MVP(実用最小限の製品・サービス)を作り試す

②顧客からのフィードバック(実験)

③仮説検証と学習

 これを答えが出るまで繰り返す。』     

                    以上

 

なるほど、新規事業を夢に置き換えたら、

けっこう人の生き方と似ているかも・・・・・・・・・・。

 

 

第二話(承)

先日たまたま自宅でテレビを観ていたら、

ビールのCMで、所ジョージに対して別のタレントが質問して、

所ジョージがそれに短い言葉で答えるという禅問答のようなシーンがありました。

 

『他のタレント「夢とは?」

 所ジョージ「急に持たない方がいい。 

       いろんなことをやっているうちに見えてくるもの」』

 

『他のタレント「運命とは?」

 所ジョージ 「答えが見つからなかった時に使う言葉

        諦めた時に言ってしまうよね 運命って」』

                               以上

 

 

第三話(転)

先日たまたま自分の手帳をパラパラめくっていたら、

こんなことが書いてあるのを見つけました。

体験して はじめて身につくんだなあ(相田みつを)』

つまずいたっていいじゃないか にんげんだもの(相田みつを)』 

                                      以上 

 

 

第四話(結)

先日ふっと言葉が出てきました。

つまりこういうことかな? どうだろう 無理ないかな?(苦笑)

 

『バッターボックスに実際立ってみて

 バットを振ってみなくちゃ分からないよね。

 体験してはじめて身につくんだよね。

 夢の捕まえ方って。』

 

『自分の責任で答えが見つかるまで仮説検証と学習を続けることだよね。

 答えが見つからないのを運命のせいにしてしまったらそこまでだよね。

 何度つまずいたっていいんだよ オレたち にんげんなんだから。』 

                                         以上

 

2017年4 月25日

NO.211-1(メインコラム)The last piece of the jigsow(puzzle)の見つけ方

今回のタイトルは、「The last piece of the jigsow(puzzle)の見つけ方」 です。

 

ジグゾーパズルをやったことが無い方はいらっしゃらないと思います。

開始そうそう2つ目のピースが見つからずイライラしてゲームを諦めてしまったこと、ありませんか? 

ピース数の多いものは特に見つかり難いですよね。

 

子供のころ堪え性の無かった私は、序盤のこのイライラでゲームを投げ出してしまったことを覚えています。

 

さて今回のタイトルにあるThe last piece of the jigsow(puzzle)、

直訳すると「ジグゾーパズルの最後の一片(ピース)」ですが、

英語圏ではこれを比喩(ひゆ)的に

「何かを完成させるために必要な最後の要素」あるいは「問題解決のための最後の鍵

という意味で使われています。

 

さらにこの比喩的表現が言わんとするのは、

『ゲーム序盤、中盤において決して姿を現すことの無い「最後のピースX(「最後の鍵」)」が、

残り1つまで詰めた状態にしてほっておけば、そのうちXは自分から姿を現す。』

ということです。

 

では仕事の中で見てみましょう。

「何かを解決したい。でもどうしたら解決できるのか? 決めてのXが何か分からない」

と言う時どうするか?

この場合も同じことが言えます。

解決するために必要なものは何か? 

まずは、分かっている要素を並べて置いておく。

要素A + 要素B + 要素C +(要素X)=〇〇の問題を解決したい

 

必要な何かが足りない この(要素X)は何か?

 

あとは、脳が勝手に働くのに任せてほっておく。

するとあら不思議、それまで正体が分からなかった「最後の鍵となる要素X(The last piece)」が頭の中に姿を現します。

 

さいごは、それを嵌(は)め込んで問題解決です。

 

どうでしょうか?

 

ではキャリアの中で見てみましょう。

「自分がやりたいことを成し遂げたい。でも何を身に付けたら成し遂げられるのか? 

決めてのXが何か分からない」と言う時どうするか?

自分の能力、経験は何か?

自分の足りない能力、経験は何か?

まずは、思い付くものを書いてみましょう。

 専門A + プチ専門B + プチ専門C +(専門X)+ 教養①=〇〇を成し遂げたい

 

必要な何かが足りない この(専門X)は何か?

 

この場合も、この未完成の状態のまま、あとは脳が勝手に働くのに任せてほっておく。

するとそのうち「最後の鍵となる専門X(The last piece)」は自分から正体を現します。

 

さいごは、それを嵌(は)め込んで行動計画完成です。

 

さいごに「最後のピースX」のお話をもう1つ。

私事ですが、

昨年の春、「これまで自分が1度も行ったことの無い都道府県はどこなのか?」という問題がふっと頭の中に浮かびました。

さっそく自分の記憶を辿りながら日本地図を前にして確認を始めました。

 

すると1度も行ったことが無かったのは「秋田県」「鳥取県」「島根県」「徳島県」の4県であることが判明しました。

  

もし行ったことの無い県の数が10とか20だったら、脳は私に向かってこの問題を投げ掛けなかったと思います。

 

そこでこんどは 私が脳に向かってこう言いました。

「そうだ、4県に行こう!」

 

2017年3 月30日

NO.210-1(メインコラム)モデリングは最強の学習法

私は入社したトヨタ自動車の新入社員研修で、

「トヨタ自動車は、その揺籃(ようらん)期にフォードを徹底的にモデリングして、世界的企業に成長する礎を得た」ことを知りました。

これが私とモデリングという言葉との出会いです。

 

ちなみに、ウイキペディアでは、「モデリング」を次のように説明しています。

『モデリング(: Modelling)は、心理学用語のひとつ。何かしらの対象物を見本(モデル)に、そのものの動作行動を見て、同じような動作や行動をするのがモデリングである。人間(主に子供)の成長過程では、モデリングにより学習・成長するとされている。思春期から大人にかけての時期では、憧れの意識から、対象の人物に少しでも近づきたいという心理が発することがある。また、芸能人ファンが、その対象人物のファッション仕草などを真似るのは、モデリングのひとつである。』

 

また、教育論の教科書は、「モデリング」を次のように説明しています。

『技能(スキル)学習のステップは、一般的に「見本を見せる(モデリング)→それを試行させる→試行の結果をフィードバックする→練習させ、勇気づける→成果を評価する」というプロセスをとる。その中で、見本を見せること(モデリング)による学習は特に重要である。』

 

さて、今回「モデリング」をテーマとして取り上げたのは、

私の「モデリング」に関する問題意識からです。

・実は、意外と多くの方々が、学習法としての『モデリングの凄さ』に気が付かぬまま、他の学習法(例えば自己流など)を選択しています。

・また、意外と多くの方々が、守破離の“守”を無視して 次のステップの“破る”“離れる”を実施しています。

 

そこで、研修などでモデリングについて(分かり易く「猿マネする」と言い換えて)お話をしています。

 

【モデリング(マネする)の仕方】

自分の能力を過信せず、見栄を捨てて、自分の欲する結果を明確にした上で、

自分の欲する結果を既に得ている人・対象(モデル)を自分の人生を掛けて探し出す

モデルを身近で観察するために、モデルの生徒か弟子かパートナーか知り合いになる。

・モデルのやっている、やり方、行動、考え方、思考法をじっくり観察して

 100%猿マネで技能、智慧、スキル、考え方、経験を身に付ける(モデリング)。

 

要は初めから「自分らしさ」にこだわらないということです。

初めから「自分らしくないとダメだ」などと難しいことを考えないことです。

まずは、お手本を見つけて、お手本を猿マネして、必要なスキル、必要な能力を身に付けてしまう。

「自分らしさ」は次のステップです。

我流でああでもないこうでもないと迷っていると、いつまでたっても身に付かないまま

アッという間に老いてしまいます。

 

おわりに

自分の欲する結果を得るためのモデリング」は、

犯罪にも影響を与えてきたことを 実例で紹介します。

 

【モデリングの連鎖】

1960年4月12日

フランス自動車王プジョーの孫エリック坊やが誘拐される。

(エリック坊やは無傷で救出される)

1960年5月16日

世田谷区で雅樹ちゃん(6才)誘拐殺人事件が起きる

(犯人の本山は4/14付の新聞で見た「エリック坊や誘拐事件」をヒントに誘拐を計画する)

1963年3月1日

映画「天国と地獄」(監督:黒澤明)封切される

(映画監督の黒澤は「雅樹ちゃん誘拐事件」をヒントに映画「天国と地獄」を作成する)

1963年3月31日

台東区で吉展ちゃん(4才)誘拐殺人事件が起きる

(犯人の小原は映画館で見た「天国と地獄」の予告編をヒントに誘拐を計画する)

 

以上