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2011年5 月30日

NO.65-1(メインコラム)私の好きな「あの日あの時」(PartⅡ)

今週のテーマは「私の好きな「あの日あの時」(PartⅡ)」です。

私は事業を始めた当時、力道山と岩波茂雄という2人の事業家をモデルに 自分の気持を鼓舞していました。

今回PartⅡは、岩波書店創業者 岩波茂雄 を取上げます。

岩波茂雄が乾坤一擲の勝負に出た1914年(大正3年)の“あの日その時”に迫ります。

 

岩波茂雄は1881年諏訪の農家の生まれです。

1901年に上京 第一高等学校に入学、1905年東京帝国大学哲学科に入学。

ただ所謂秀才タイプの人間ではなく 破天荒で猪突猛進タイプの青年だったようです。

そんな彼は、1913年(大正2年)、神田神保町に古本屋を開きます。

 

さてここで、この物語のもう一人の登場人物、夏目漱石のその時代にも触れておきます。

夏目漱石は1903年(明治36年)4月に第一高等学校の講師に就任。

漱石は、岩波の武勇伝を弟子達から伝え聞いていたと言われています。例えば次のような、

「一高の岩波という生徒が、汽車なんぞに負けてたまるかと啖呵を切り、走って汽車と競争したそうです」。

岩波が古本屋を開いた(1913年)翌年1914年4月に、漱石は朝日新聞に「こころ」を連載します。

 

岩波茂雄は、自宅で毎朝、朝日新聞連載の「こころ」を読んでいたそうです。

そんなある朝、いつものように「こころ」を読んでいた岩波は突然体の震えと溢れ出る涙が止まらなくなり、妻に「紋付袴を出してくれ」と命じ、自宅を飛び出しました。

岩波が向かった先は 夏目漱石の家でした。

朝の唐突な訪問。 片や「超売れっ子作家の漱石」、片や「無名の古本屋の岩波」。

そんな2人が漱石宅の玄関で向かい合いました。

岩波は涙をこぼしながら、堰を切ったように切り出しました。

『先生 先生の「こころ」 私に本を出させてください』。『これまで我慢してきましたが、その気持が今朝、限界となりお願いに参りました』。

 

岩波のこの突然の申し入れに対して、漱石は次のように応えたと言われています。

『この「こころ」を本にする時は、君にやってもらおうと ずっと前から考えていました』。と。

 

どうですか? 岩波茂雄の“あの日その時”。

でも漱石はなぜ 実績のない一介の青年 岩波茂雄に 心を動かした(された)のでしょうか?

「岩波青年の一途な情熱に感動して心が動いた」。簡単に言えばそう言うことなのでしょうが、私はどうも腑に落ちなくて長い間モヤモヤとしていました。

そんなある時ドラッカーの本の中で「integrity(インテグリティ)」という言葉に遭遇し電気が走りました。

「おお~っ この感覚だ!」と。

integrityは日本語表現が難い言葉で、「誠実さ」に「誠実さに基づく強い行動力」がプラスされた意味を持つ言葉と言われています。

ちなみに辞書で調べると the quality of being honest and strong about what you believe to be right と出ています。

漱石の感性には 「岩波茂雄の心の中の integrity」 が見えたのだと 私は確信しました。

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    Kimo  インテグリティを持った人(a person of integrity)!!

2011年5 月27日

NO.64-3(NO.64-1関連その2)私の好きな「あの日あの時」(PartⅠ)

今回(64-1のメインコラム)の関連資料としてご紹介するのは、昨年ベストセラーとなった「20歳のときに知っておきたかったこと スタンフォード大学 集中講義」(ティナ・シーリング 著)です。

 

この本の物語で伝えたかったのは、愉快な場所から離れ、失敗することをいとわず、不可能なことなどないと呑んでかかり、輝くためにあらゆるチャンスを活かすようにすれば、限りない可能性が広がる、ということでした。

 

正力松太郎は、力道山という若者が放つ“溢れんばかりの自信と情熱”に心を動かされたのかもしれませんね。

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                      「20歳のときに知っておきたかったこと スタンフォード大学 集中講義」

                                                                             (ティナ・シーリン著)

 

 

☑種明かしをすると、これまでの章のタイトルはすべて、「あなた自身に許可を与える」としてもよかったのです。わたしが伝えたかったのは 常識を疑う許可、世の中を新鮮な目で見る許可、実験する許可、失敗する許可、自分自身で進路を描く許可、そして自分自身の限界を試す許可を、あなた自身に与えてください、ということですから。

じつはこれこそ、わたしが20歳のとき、あるいは30,40のときに知っていたかったことであり、50歳のいまも、たえず思い出さなくてはいけないことなのです。

 

☑わたしは、この本で紹介した物語の一部を父に話しました。すると父は、83歳の人生を振り返って、いちばん大切な知恵は何かを考えてみると言ってくれました。父は人生を振り返って、いちばん大切な教えをこう考えているそうです。「自分に対しては真面目すぎず、他人に対しては厳しすぎないこと」。自分や他人の間違いにもっと寛容で、失敗も学習のプロセスの一環だと思えばよかった、と。いまの父ならわかるのです。過ちを犯しても、大地が揺らぐことなど滅多にないのだと。

 

☑人生は甘美だけれど、移ろいやすいものであることも父が教えてくれました。影響力や権威、力のある立場に立てば、大きな恩恵を受けられます。ところが、その地位を去った途端に、そうした特権は消滅してしまいます。「力」は地位に由来します。その地位を外れた途端に、すべてがなくなってしまうのです。だから、自分自身をいまの地位と結び付けて考えてはいけないし、周りの評価も鵜呑みにしてはいけません。

 

この本の物語で伝えたかったのは、愉快な場所から離れ、失敗することをいとわず、不可能なことなどないと呑んでかかり、輝くためにあらゆるチャンスを活かすようにすれば、限りない可能性が広がる、ということでした。

もちろん、こうした行動は、人生に混乱をもたらし、不安定にするものです。でも、それと同時に、自分では想像もできなかった場所に連れて行ってくれ、問題がじつはチャンスなのだと気づけるレンズを与えてくれます。何よりも、問題は解決できるのだという自信を与えてくれます。

 

☑25年前に書いた詩を読んで思い出すのは、20代の頃、次のカーブに何が待ち受けているのかわからなかったが故に抱いた不安です。将来が不確実なのは歓迎すべきことなのだと、誰かが教えてくれればどんなによかったのに、と思います。

この本のなかで紹介した物語が教えてくれているように、予想できる道を外れたとき、常識を疑ったとき、そしてチャンスはいくらでもあり、世界は可能性に満ちていると考えることを自分に許可したときに、飛び切り面白いことが起きるのですから。

2011年5 月25日

NO.64-2(NO.64-1関連その1)私の好きな「あの日あの時」(PartⅠ)

今回「64-1(メインコラム)の関連その1」として、ご紹介するのは、実業家 渋沢 栄一 著書「論語の読み方」です。

 

渋沢は、「人物観察法は、視・観・察の三つをもって人を鑑別しなければならない」と述べています。

まず第一に、善悪正邪を視る。第二に、行為の動機をとくと観きわめ、第三に、何に満足して生きているかを察知すれば、必ずその人の真の性質が明らかになる。と。

 

「“人の心を動かす”には信頼にたる人物たれ」と言うことですね!!

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                   「論語 の 読み方」(渋沢 栄一 著)

 

 

☑仁の一字は孔子の生命で、また「論語」二十篇の血液である。孔子はこの仁のために生命を捧げたほど大切なことで、孔子の一生は仁を求めて始まり、仁を行って終わったといっても差し支えない。

 

☑算盤(そろばん)をとって富を図るのはけっして悪いことではないが、算盤の基礎を仁義の上においていなければいけない。私は明治6年に役人をやめて、民間で事業に従事してから50年、この信念はいささかも変わらない。

 

孔子の人物観察法は、視・観・察の三つをもって人を鑑別しなければならないというところにと特徴がある。

まず第一に、その人の外面に現れた行為の善悪正邪を視る。

第二に、その人のその行為の動機は何であるかをとくと観きわめ、

第三に、さらに一歩を進めてその人の行為の落ち着くところはどこか、その人は何に満足して生きているかを察知すれば、

必ずその人の真の性質が明らかになるもので、その人が隠しても隠しきれるものではない。

 

☑大事業に成功する人は、自分の腕前よりも人物鑑識眼をもっていることが必要である。一個人の才能はどんなに非凡でも、その力に限界があるものである。何もかも一人でさばけるものではない。非凡な才能をそなえた人で、案外人物の鑑識眼にとぼしい人が少なくない。平岡円四郎や陸奥宗光もこの類の人といえる。一方、井上馨は元来感情家であったけれども、人物を鑑別する際には、けっして感情に駆られず、人を用いるには、まずその人物の善悪正邪を厳しく識別して、それから登用していた。

 

☑人の行動は、過ぎることもなく、不足することもなく、平常の道を行くことを中庸と言う。孔子が中庸の徳を称賛して、完全無欠「それ至れるかな」と言ったのは、何事によらず中庸を得てさえおれば、けっして間違いの起こる心配がないからである。

それにしても実際に長く中庸を守ってこれを実行する人が少ないのは、まことに嘆かわしいことである。

 

☑人には喜・怒・哀・楽・愛・悪(憎)・欲の七つの情がある。この七情の発動が全て義にかなうようにしなければならない。こうするためには自分の感情をコントロールし、自分の隠れた欠点を直さなければならない。ところが悲しいことがあっても悲しい顔を見せず、うれしいことがあっても喜んだ顔を見せない人がいるが、これは偽りである。聖人はうれしいときには喜び、悲しいときには悲しんで、七情の発動を理にかなうようにしている。

孔子は「七十にして心の欲する所に従うて 矩(のり)を踰(こ)えず」と言っているが、心の命じるままに言動し、しかも少しも道理に背かず、無理なく原理原則に合っているという意味にほかならない。

2011年5 月23日

NO.64-1(メインコラム)私の好きな「あの日あの時」(PartⅠ)

今週のテーマは「私の好きな「あの日あの時」(PartⅠ)」です。

“一引き、二運、三器量”と言う言葉がありますが、いかにして有力者の心を動かし、有力者の引きを掴むのか?  

今回はそのモデルとして、力道山 を取上げ、昭和29年2月19日 彼が一夜にして国民のヒーローとなった 私の大好きな物語「力道山のあの日あの時」に迫りたいと思います。

 

力道山はプロレス修行のため本場アメリカに渡り、あの日その時 の 11ヶ月前、昭和28年3月に1年間の修行を終えて帰国しました。 

アメリカの先進性を肌で感じてきた力道山は、テレビが持つ影響力の大きさと テレビ向けコンテンツとしてのプロレスの可能性 を胸に秘めていたであろうと思います。

力道山は、帰国そうそう その年の8月に開局を予定していた日本テレビと、テレビ受像機メーカーとして名乗りを上げていた早川電機、八城電機のトップに対して 「プロレスのテレビ中継」と「広域での街頭テレビの設置」について直談判を始めます。

力道山の情熱とは裏腹に 当代屈指の興行師であった力道山の後見人、永田貞雄は「テレビで無料放映すれば、会場に客が集まらなくなる」とテレビ放送には最後まで反対であったと言われています。

その永田も 結局 事業家としての力動山の先見性に脱帽することになるですが・・・・・・・。

 

そうしてとうとう力道山の粘り強い交渉が実を結び、テレビ放映は、NHKと日本テレビの二元中継(今では考えられないことです)。

テレビ受像機は、新橋、新宿、銀座、有楽町、渋谷など首都圏各所の街頭に210台が設置されることになりました。

この街頭のテレビは、当時既に 野球、ボクシングで成功を収めていましたが、今回の設置は空前絶後の規模となりました。

 

そして今回の「あの日あの時」 昭和29年2月19日、初のプロレステレビ中継の日を迎えます。

新宿西口では街頭テレビの前を1万2000人の観衆が埋め尽くすなど、日本テレビとNHKの画面に映し出された“アメリカ人と戦う力道山の姿”に日本人が熱狂しました。

翌20日には、後見人 永田の心配をよそに、前日街頭テレビでプロレスを観たファンが試合会場の蔵前国技館になだれ込み、怪我人が多数出る騒ぎとなりました。

 

それは 力道山という新しいヒーローが一夜にして誕生した瞬間であり、

“プロレス”と“テレビ” という2つの怪物を組み合わせたビジネスモデルが誕生した瞬間でした。

 

では最後に 今回の「あの日あの時」のキモに迫りたいと思います。

それは 力道山が、いかにして有力者の心を動かし、その引きを掴んだのか?ということです。

今回調べてみると、正力松太郎が当時の力道山を回想する文章を発見しました。 

「気負い立って社主室に飛び込んできた力道山の、紅潮した仁王のような風貌をみて、ふと自分の若かりし日の“きかず屋”ぶりを想起した」と。 

 

かわいかったんですね、一生懸命に生きている若者が。昔の自分を見るようで!!

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    Kimo昔の自分を見ているようで かわいい!!

2011年5 月20日

NO.63-3(NO.63-1関連その2)今の人事考課制度で大丈夫ですか?

今回(63-1のメインコラム)の関連資料としてご紹介するのは、「人事評価の教科書」(高原 暢恭 著)です。

 

著者は次のように述べています。

『最終評価決定会議で出される結論が全て理由付きで出てくるということはありません。・・・・どのような経緯の下でこういう結論になったのか・・・・会社としての最終決定をどう説明するのかのロジックを、しっかりつくってください。』

 

私は、このロジックがつくれる人事考課制度でなければ組織は機能しないと考えます。

 

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                  「人事評価の教科書」(高原 暢恭 著)

 

☑評価フィードバック面談では、評価結果については部下に納得してもらうことが一番よいのですが、どうしても納得しないというケースが出ても、管理者はあまり自分を責め過ぎないようにしてください。「私はちょっと納得できない面もありますけれど、課長のおっしゃることは分かりました」というぐらいの、少しは歩み寄りを得られるよう、努力することがポイントです。

また、評価結果に対する考え方の違いを強調するよりも、「自分が成果をあげようと頑張ったことは、上司も認めてくれた」というように一致点を強調するようにしましょう。

 

☑最終評価決定会議で出される結論が全て理由付きで出てくるということはありません。ある程度、相対評価的な見方で調整がなされることがあります。もし、事情がよく飲み込めないならば、部長(二次評価者)とも相談し、どのような経緯の下でこういう結論になったのかをよく理解するようにしてから、会社としての最終決定をどう説明するのかのロジックを、しっかりつくってください。

 

☑こうして評価フィードバックでのやり取りに対するイメージを持てば持つほど、評価フィードバック面談以前にいろいろな話をしておく必要性を感じるはずです。特に、上司が低い評価で、部下が高い評価という場合は、それ以前にコミュニケーション齟齬が起きているわけですから、できるだけ早く克服しておかなければなりません。

 

☑「ダイバーシティ」が事業展開上重要な意味を持ち始めると、同質性の高い社会では、反省を迫られてきます。最近流行の「コーチング研修」「コミュニケーション研修」などは、その反映ではないかと思います。説明責任の問題も同様です。

人事評価のフィードバックの問題を一般社会で求められている説明責任と関連付けてとらえた場合、ミドルマネジメント層からするとプレッシャーは相当きつくなります。なにしろ、評価者は、部下の年収を何百万も減らせる評価権限を持っています。こんな大きな権限を公正に行使せよとだけ言われ、放って置かれて動じない人は、よほど屈強な人だと言えるでしょう。

 

☑評価者が思い切って評価に取り組めるためには、いくつかの支えが必要です。何よりも

①難しい判断が求められるところでのガイダンスとしての評価基準としての支え。

②悩んだときのメンター機関の支え。

③人事評価者訓練などで培われる評価についての共通価値観の支え。

④管理者としての団結の支え。

が必要です。難しい時代だけに、評価者を孤立させないようにしましょう。