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2013年2 月23日

NO.139-1(メインコラム)私説:国家破綻77年説(上編)

今週は、来週と2回に分けた「私説:国家破綻77年説(上編)」をご案内します。

まず日本の近代史を紐解き「国が制度疲労で破綻する77年サイクル」を考察したいと思います。

今からおよそ150年前の

1868年、無血革命により明治政府が誕生しました。 その年を境に我が国は、西洋列強に追いつけ追い越せとがむしゃらに突き進み始めました。

そうして少し自信を付けた 26年後の

1894年 日本は豊島沖で清国艦に攻撃をしかけ日清戦争を勃発させます。

この戦に勝利した我が国は更に自信を付け その10年後の

1904年 旅順港外の露艦隊に攻撃をしかけ日露戦争を勃発させます。

幸運にもこの戦いにも勝利した日本は益々自信を付け その10年後の

1914年 第一次世界大戦に参戦を宣言し 中国山東省に上陸します。

流石に列強たちも日本に警戒心を強めその7年後の

1921年ワシントン軍縮条約で英、米、日、仏、伊 の主力艦・航空母艦等の保有の制限が取り決められ 保有割合は 5, 5, 3, 1.75、1.75 と 日本は米英の6割に抑え込まれます。

明治維新53から年目。

日本及び日本国民が外からの力で初めてねじ伏せられた出来事でした。

ここで一旦ガクッと落ち込みましたが 『この屈辱をバネに捲土重来を期す』ことを誓い、 ブレーキの壊れたダンプカーのように暴走しだします。

そしてついに

1934年にワシントン海軍軍縮条約を破棄し

1937年に日中戦争を勃発させます。

これに怒ったアメリカは

1941年に対日石油輸出禁止を決定。

追い詰められた日本は“窮鼠猫を噛む”のたとえの通り  その年の12月 太平洋戦争を勃発させます。

そして開戦から4年後の

1945年ポツダム宣言を受諾し全面降伏します。 

明治維新から77年目のことでした。

2013年2 月17日

NO.138-1(メインコラム)天地人(松下電器創業の地に立ってみて)

今週のテーマは「天地人(松下電器創業の地に立ってみて)」です。

 

数年前 NHKで大河ドラマ「天地人」が放映されていました。

この番組タイトル「天地人」の 天と地と人。

この3つの単語は「戦(いくさ)における孟子の格言」が元になっています。

孟子曰「天時不如地利地利不如人和

【現代訳】

孟子曰く「天のもたらす幸運は地勢の有利さには及ばず、 地勢の有利さは人心の一致には及ばない」

 

戦(いくさ)における孟子のこの格言をビジネスに持ち込み、

『会社経営の要諦は、天の利(時)<地の利<人の利(和) です。

よってまず御社の “企業理念の見直し” “人財の棚卸と育成” に着手しましょう。』

と指南する(高いフィーを取って)経営コンサルタントが沢山います。

 

私自信、会社を経営していたころ、  天の利(時)、地の利、人の利(和) の組み合わせ方程式にどっぷりと嵌(はま)り込みもがいていた時期がありました。

 

先日 大阪の福島区に所用があったため、以前より確かめてみたいと思っていた 松下電器産業の創業の地 

大阪市 福島区 大開(おおひらき)2丁目12番地

を訪れてみました。

今は立て替えられて別の人が住んでいますが、 そこの20坪程度のスペースに建てられた民家の1階で松下電器は産声を上げました。

 

福島区の土地柄を調べてみると 次のように記載されています。

『堂島より北にあたるこの地は江戸時代は近郊農村だったが、明治以降繊維産業などの大工場が建設され、周囲は中小企業の工場地帯となった。松下電器産業が福島区で創業したほか、現在でも印刷・製本工場や、自動車部品などの卸業者が多く立地している。』

 

実際 その地域を散策してみると、 中小の工場、問屋、民家、学校が隙間なくビッシリ隣接しており、今でも化学反応が融合しそうな地域です。

たぶん松下電器の創業時、この“地の利”、ネットワークの恩恵を沢山受けたのでしょう。

その上で もしこの孟子の格言を経営に当て嵌めるとしたら

天の利(時)>人の利(和)>地の利 である。

との考えが(この地を訪れてみて)私の頭の中で固まりました。

何故なら、『今の時代に松下幸之助がいたら、何をしただろうか?』その問いに対する答えが 

私の頭の中でどうしても想像できなかったからです(苦笑)。

2013年2 月11日

NO.137-1(メインコラム)未来は”今ここから”創られる

今週のテーマは「未来は“今ここから”創られる」です。

突然ですが、学生時代 日本史で習った「生麦事件」のこと、覚えていますか?

1862年8月21日、生麦村(現・横浜市鶴見区生麦)で起こった殺傷事件です。

当時全国各地で頻発していた攘夷がらみの殺傷事件のなかで、 この生麦で起きた1862年の殺傷事件が後世にその名を残したのは「何故?」か、

それは、この事件が「後の日本の歴史の流れを大きく変えるきっかけとなった事件」となったからです。

 

生麦事件のあらましはこうです。

江戸高輪の薩摩藩下屋敷を午前10時頃出発した島津久光の行列約700人が生麦村にさしかかったのは午後2時頃。

ちょうどその時、街道の向こうからやってくる馬に乗った4人のイギリス人と街道で出会いました。

(4人のイギリス人は川崎大師に観光に向かう途中だったと言われています。)  

行列の先頭の家士が「馬から降りろ。わきへ寄れ!」と注意しましたが、日本語が通じないため、4人のイギリス人は行列の中に入ってしまいました。

供頭の奈良原喜左衛門が駈けだし、大刀を抜いてイギリス人の一人を斬りつけました。

切りつけられたイギリス人は逃げようとしましたが、久木村利久という家士に同じ箇所を、さらに斬られて落馬。とどめを刺されました。

他の2人も肩や腕に傷を負いましたが、神奈川宿のアメリカ領事館(本覚寺)に助けを求め、無傷の1人は横浜のイギリス公使館に向かいました。

この事故で、イギリス1人が死亡、2人が負傷しました。

 

さてここからです。

生麦事件が引き起こす歴史のドミノは!

①生麦事件勃発

②イギリスが江戸幕府と薩摩藩の両者に4人の賠償を請求

③幕府は賠償金を支払うも 薩摩藩はこれを拒否

④イギリスは賠償を拒否した薩摩に対して武力を行使⇒薩英戦争勃発

⑤圧倒的な火薬の威力の前に薩摩はイギリスに敗退

⑥戦争でお互いを認め合った薩摩とイギリスは接近

⑦薩摩は「攘夷」の愚を知り、開国による富国強兵により外国に劣らない武力を備える必要を悟る。

⑧イギリス駐日公使パークスも幕府に代わり長州や薩摩、土佐など雄藩との繋がりを強める。

⑨坂本龍馬、中岡慎太郎らの仲介により薩長同盟成立⇒倒幕へと動きが一気に加速する。

 

どうですか?

この偶然(必然?)により勃発した生麦事件が引き起こしたドミノ!

 

私、先日 京浜急行に乗って生麦駅で下車して、この生麦の現場を見に行ってきました。

「未来は今ここから創られる」を体感したかったからです。

来ました来ました!大地を通じて足の裏から!